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| トップページ > 遷宮ってなんだろう? > 第5回 「遷宮にかかわった人々」 〜遷宮と御師そして遷宮にかかわる幾多の人々〜 |
| 持統天皇の時代から現在まで、1300余年の歴史の中で、多くの人々が遷宮にかかわってきました。中でも、中世戦乱の時代に途絶えた遷宮を再興させた慶光院清順上人他、「お伊勢まいり」を全国津々浦々に広めた御師についても学びます。 |
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| 式年遷宮そのものは、持統天皇4年(690)に内宮の式年遷宮が、同6年に外宮の式年遷宮が行われました。それからずっと時を経て、平成25年に第62回式年遷宮を迎えます。 ただこの式年遷宮の歴史を考えていくうえで大事なことは、現在の姿がそのまま持統天皇の頃にあったかというと、大きく違うのだということです。 古代の神宮を見ていくうえで大事な史料に、延暦23年(804)に書かれた『皇太神宮儀式帳』や『止由気宮儀式帳』、あるいは延長5年(927)に成立した『延喜式』があります。これらの書物には、古代に式年遷宮がどのように行われたのか、はっきり書いてあります。 | |||
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| 御正宮だけの式年遷宮を行っていた頃は、神宮の御杣山は、外宮が高倉山、内宮が神路山です。当時は遷宮の前年10月より木を伐り始め、翌年に御社殿を建て替えました。 それが平安時代の終わりから鎌倉時代の初め頃になりますと、4年くらい前に木を伐っています。もう高倉山、神路山などでは採れなくなってきて、宮川の上流へ行き始めた頃になりますと、少し手間がかかってくるようになるわけです。現在は、8年前に木を伐ってから水の中に入れてずっと寝かせています。 そして、式年遷宮では、御神宝・御装束も新しく作り直します。そのために都で造神宝・装束使が任命され、祭祀を司る神祇官西院という役所で、神宮に納めるべき品物をすべて作ります。式年遷宮に奉仕する人びとの衣服も都で作っていました。 また、その御神宝・御装束類は、わずか2カ月半ぐらいで作られていたことが『延喜式』に記されています。逆に言うと、それくらいで作れる能力が都にはあったわけです。 | |||
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| そのような古代の遷宮の様相は、平安時代の終わりから鎌倉時代くらいになってきますと、大きく変わってきます。 遷宮を行うための費用は、古代は国庫や神税という神戸からの租税によって賄われていました。ところが、平安時代の後期頃になると、なかなかその神税が入って来なくなるわけです。伊勢神宮には出さないで、別のところへ出してしまうのですね。あるいは役夫にしても、国司や郡司がいくら命令しても集まらなくなってきた。そういう状況が出てきますと、もう式年遷宮が出来なくなってきます。 そこで新しく取り入れたのが、成功(じょうごう)や役夫工米(やくぶくまい)です。成功とは、ある程度の財を神宮の御社殿を建てるために出すと、どこそこの国の国司に任命しますよと、お金を出してもらう代わりに官職を与えるわけです。さらに効果があったのが、役夫工米です。これは承保3年(1076)、全国の荘園に、式年遷宮の際はどれだけの米を出しなさいと一律に命じました。この命令が下されたおかげで、九州でも出雲でも自分たちのお祀りしている神以上の神様が伊勢におられるのだ、ということがわかってくる。伊勢をより全国に知らせたわけです。 | |||
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| 式年遷宮は、鎌倉時代には幕府の応援もあって20年毎に行われていました。しかし、南北朝の争乱が起こると、その勢力争いに伊勢神宮も巻き込まれ、少しずつ乱れてきます。室町幕府が成立した後、北朝方が任命した造宮使が伊勢までやって来ようとしましたが、伊勢はその頃、南朝勢力の影響下にありましたから、伊勢まで来られないわけです。 そうした国内の乱れが少しずつ式年遷宮に影響を及ぼします。 そして、内宮では寛正3年(1462)、外宮では永享6年(1434)の式年遷宮の後、共に120年、130年ほどの間、式年遷宮が行われなくなりました。 中絶期には、御社殿で雨漏りがする。伊雑宮などは御社殿が倒れて、ご神体が雨露に侵されたりして、何とも嘆かわしい状態になりました。ですから、何とかして式年遷宮を行いたいという気持ちはあるのですが、世の中は乱世でみんなが争っているような状態ですから、式年遷宮を円滑に行うという情勢ではありません。 | |||
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| また、この時期には、有力な戦国大名も神宮のそれぞれのお宮を建て替えるときにお金を出しています。伊勢国司の北畠氏、あるいは織田信秀などが遷宮の財を出したわけですが、だれかが出して欲しいとお願いしに行かなければ、なかなか出しません。例えば、天文十年(1541)に外宮仮殿を建てる財を出した日向の伊東義祐は、今の宮崎県の大名ですから、誰かが宮崎県まで行って頼まなければならないわけです。それを行ったのが、御師です。 | |||
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| 御木曳は、もともとはその地に住んでいる人が、夫役という税の一つとしてすることになっていたのですが、だんだんできなくなり、心ある人が奉仕するかたちに変わっていきました。 その御木曳で最も大事な木は、初曳と呼んで曳きました。古くは、棟持柱や御扉などにする大きな材がもっとも大事なものとされていました。しかし、そういう大きな材よりは、ご神体に近い材の方が大事だという意識がだんだん強くなり、最初に曳かれる木として御樋代木(みひしろぎ)が注目されました。そして、いろんな町が参加して木を曳くようになりました。 天照大御神は太陽の神ですから、すべてを照らしてよくご覧になります。みんなが喜んで御木曳をして、御社殿を建てていたら、気持ちよくそこに住まわしてもらおうという気になる。天照大御神が気持ちよく住んでいただくと、あと20年間は安泰だという思いがあったわけです。だから江戸時代の人たちは、御木曳を自分たちの祭りとして、それぞれの町で競い合って参加しました。 | |||
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| 信仰というのは、非常に大事だと思います。いくら立派な御社殿を建てても、その信仰がなくなってしまえば心は通いません。伊勢神宮は、私幣禁断でした。しかし、天皇ご自身も、自分のことを祈るわけではありません。天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄をお祈りされるわけです。 私達も、お互いの気持ちの中で、式年遷宮とは何か、そのために伊勢の人びとがどんなに感謝して喜んで参加してきたか、そういう思いをつなげていければと思います。 | |||
![]() | 岡田登 |
| 昭和27年、三重県四日市市生まれ。 皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程に学び、現在は皇學館大学史科編纂所教授。また、三重県史専門調査員、伊勢市史編纂委員会委員・同編集専門委員などを務める。 著書に『磯部町史・上下巻』、『大宮町史・歴史編』『神宮禰宜系譜』『倭姫命について』他。論文に「奈良三彩小壷出土の多気町クツヌイ遺跡をめぐって=東大寺大仏造立と伊勢神宮=」「日本武尊の東征伝承と伊勢神宮」「伊勢の町と御師」など。 |
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